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2024年6月6日 サムエル記第一22章

 関牧師がメッセージの中で十字架の縦と横について語っていた時にサウルのことを思いました。私たちは、神との縦のつながりと他者との横のつながりを大切にすることは、耳にたこができるほど語られて聞いてよく知っています。また聖書からも学び私たちのからだにしみこんでいます。そのことは、私たちクリスチャンにとって最も大切なことだからです。しかし、残念なことにサウルはその両方を失ってしまったのです。つまり、神から離れてしまったら十字架の縦と横のつながりが無くなってしまうことであるからです。愛することができなくなると、恐怖、憎悪、殺しへの結末になってしまうのです。


 ダビデはたった一人での逃避でアドラムの洞穴に避難した。だが、主なる神は彼を決して一人にはしなかった。そこには、家族だけではなく、生活に困窮している者、サウルに不満にある者たち、役四百人の者たちを快く受け入れてダビデと生活することになったのである。これらの人々はダビデの信仰に目が向けられたことだと思います。すべて神のご計画の中だったのでしょう。


 それとは、対照的にサウルの残酷な行為におもわず目をそむけたくなります。特に何の罪もない祭司アヒメレクが殺されます。それだけで収まらないサウルはさらに祭司の一族、ノブの町に住む民間人・年齢差別なく皆殺し、動物までも殺してしまうのである。常識では全く考えられない、狂気としか言えようがありません。このようなことをするサウルは完全にただひたすらダビデへの憎しみからでた悪魔的な行動としか思えません。


 祭司アヒメレクの息子エブヤタルが、一人逃れてダビデのところに来てすべてを話した。それを聞いたダビデは、彼を守ることを約束するのである。自分のせいでおきた大虐殺に、ダビデの心痛はいかほどだったかと思わされます。窮地に陥ったダビデを通して、主なる神は私たちになにを語ろうとされるのか大いに学びたいところであります。


 人生の窮地に立たされた時に私たちが目をどこに向けて立っていくことができるのか。そういう時でもしっかりと主なる神だけに目をむけて立ち上がっていくことができるようになりたいと思わされるところです。



 愛する天の父なる神さま。あなたによって日々、生かされていることを心から感謝します。ダビデが一人になってもあなたは多くの人々を彼にあたえてくださりました。ダビデの、神への信仰の姿があらわれたからだと思います。私たちクリスチャンも、何度も挫折しますが、そのつど悔い改めて、あなたの栄光をあらわすことのできる日々を送らせてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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