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2024年6月8日 サムエル記第一24章

 サウルはダビデを追い、そしてダビデはサウルから逃れるためにダビデの部下と共にエン・ゲディの荒野の洞穴に隠れています。そして偶然にもサウルがその洞穴に用を足すために入るのです。


 ダビデの部下たちは、これをサウルを殺す絶好の機会と思い、ダビデに『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われた、その日です。」(4節抜粋)と促すのです。しかし、ダビデはサウルを殺すのではなく、サウルの上着の裾を切り取るという行動をしたのです。


 ここで私ならば、敵対視されているサウルに殺される立場にいるわけですから、信頼している部下の言葉が神さまの言葉と聴こえ、殺してしまうことが正しいと思ってしまうでしょう。


 しかしダビデは、神さまに選ばれた者であるサウルを手にかけることは、神さまの意に反すると考えたのです。ダビデは、サウルを殺さず上着の裾を切り取ったことすら後悔するのです。


「後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。」5節


「彼は部下に言った。「私がに逆らって、に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼はに油注がれた方なのだから。」6節


 ダビデの神さまへの完全な信頼と、神さまに油注がれた王であるサウルに地にひれ伏し礼をするダビデの謙虚さに心打たれます。

 そして、ダビデはサウルに、危害を加えることはないことを示したうえで、神さまの裁きを信じると伝えるのです。


「どうかが、さばき人となって私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて擁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」15節


 嫌な思いをさせられた時、その人をダビデのようにゆるす心をもつことができ、自分の手で解決しようとするのではなく、神さまに信頼してその導きに従うことが大切なのだと学びます。神さまは私たちの最善を知っており、その計画は私たちの考えをはるかに超えているのです。


「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしはである。」(レビ記 19:18)


祈り

愛する天のお父さま、私たちが困難な状況に直面したとき、ダビデのように敵をゆるし、あなたに信頼する心を持てるよう助けてください。あなたの導きに従い、あなたの計画を信じることができますように。そして謙虚な心で歩むことができますように。イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン


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