top of page
  • hccnichigo

2024年6月9日 サムエル記第一25章

 サムエルが死んだ後もダビデの一行はユダ族の町々を転々と移動していた。それでもダビデ一行はペリシテ人から民を守っていた。そして、ダビデは若者たちをナバルのところに遣って食料品の催促をした。だが、ナバルは侮辱的な行動で否定して何も与えなかった。その時、ナバルの妻アビガイルはそこに居合わせていなかった。


 ダビデは、ナバルの侮辱的な行動に怒って出陣をした。その後に、アビガイルとの会見となった。自分の留守中に夫のナバルの無礼なる行動を知って急いで食料品をもって部下たちとダビデのところに来たのである。その時の、アビガイルの勇気ある発言が心に留まった。夫のおかした罪を自分の身に負うのである。アビガイルは、神がダビデとともにおられること、そしてユダの地で民を守る王としての働きをしていることを認めていたのである。29節、31節のアビガイルがダビデに語ったことに強く心が動かされました。

 

「ご主人様は主の戦いを戦っておられるのですから。あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません」28節(抜粋)


「人があなたを追って、いのちを狙おうとしても、ご主人様のいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれています。あなたの敵のいのちは、主が石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。」29節


「理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたたことが、つまづきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。主がご主人様を栄えさせてくださったら、このはしためを思い出してください。」31節


 何という勇気あるアビガイルの発言でしょうか。ヨナタンが父サウルに訴えたときのことが重なってきました。ダビデは彼女の訴えに従い討伐をやめたのである。そして、ダビデが討たなくとも、夫ナビルは、妻からことのあらましを聞いて突然倒れてその十日後に神によって死んだのである。神の計画を知ることがいかに大切であるかを示された思いでした。


 

 愛する天の父なる神さま。私はクリスチャンという立場を忘れてとんでもない事をすることが多々にあります。そういう時には決まって自分のプライドという罪が先にでてきて、あなたの御声に聞き従うことを二の次にしてしまいます。そのような時に私たちが何を優先順位にするかを見分けることができますように示してください。アビガイルのように神の計画に心を向けることができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


閲覧数:22回0件のコメント

最新記事

すべて表示

2024年7月16日 ヨハネの福音書7章

『わたしの教えは、わたしを遣わされた方のものです』 主イエスの兄弟たちもイエスを信じていなかったと5節にありますが、そればかりでなく群衆もイエスを殺そうとしていた1節。つまりこの世に語りかけた主のみことばを受け入れる人もいたのですが、この世の価値観とかけ離れている主の教えに対して、大半は疑い、一部には主を抹殺しようとしていた、そのような緊迫した状況の中で、ユダヤの3大祭りの一つである、秋祭りの仮庵

2024年7月15日 ヨハネの福音書6章

『わたしがいのちのパンです』 ここで注目したいのは、主は世にパンを与えると言っているのではなく、わたし自身が命のパンそのものであると宣言されている点です。ガリラヤ湖畔の山にのぼられて5千人にパンと魚を望むだけ与えられた後に、宣言されたのですが、この「I am the bread of Life わたしがいのちのパンです」とは、主イエスが神であるという7つの神性宣言の最初のみことばなのです。エジプト

2024年7月14日 ヨハネの福音書5章

べテスダと呼ばれている池で38年も病気にかかっている人とイエス様との会話に目が留まった。ちなみにべテスダとは「あわれみの家」という意味である。エルサレムの旧市街地にあるアラブ人居住区の一角にあり、現在ではその一部が発掘されているそうです。 当時エルサレムには、べテスダの池(あわれみの家)というのがあり、そのほとりには多くの病人がいました。池の水がかき回されたときにそこに入ったら癒されるという藁にも

bottom of page