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2024年7月12日 ヨハネの福音書3章

『新しく生まれる』


 パリサイ人でユダヤの議員であるニコデモがこっそりと主イエスに会いに来ました。ニコデモは宗教的な教師でもあったわけですが、律法を一生懸命に守り、神を愛する人だったと思うのです。でもそれだけ熱心でも、何か自分の中に満たされないものが有ったのではないか、主イエスの奇跡や行いを見て、自分には無いものをイエスが持っている、神がイエスと共にいると確信して、真剣に教えを聴きにきた人です。しかしながら、パリサイ派の目や世間体を気にして夜に訪ねてきています。この世に半分足を残しながら、天の御国にも足を伸ばしている。これって自分達の姿かもしれませんね


 主イエスの答えはかなり辛辣です。

10節「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。」と手厳しい答えです。普段の優しさではない主を見るような思いですが、主が教えたかったことは、律法をあなたの努力で守ろうとしているが、そうではない。

6節「肉によって生まれた物は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」新しく生まれ変わりなさいと仰るのですが、もしかしたら、このみことばは自分の身体から赤ちゃんを産んだ経験をしている女性の方には、新しい命を産むと言う主イエスのことばは、意外とすんなりと理解できるのかもしれません。


 このようなユダヤの宗教指導者ニコデモとの会話から、新約聖書の奥義でもある3章16節が出てきたのですね。


16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 まさに聖書の金字塔のみことばです。しかし私たちは、この神の愛ばかりに目がいってしまって、神の義を忘れていませんか。


18節「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子を信じなかったからである。」

 信じない者は、神の義に出会い、裁かれる事も私たちは伝えていかなければならないのです。

 続けて36章「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」これは、本当に恐ろしいみことばでもあるのです。


 時々、日本の方で自分はキリストを信じたいのだけれど、夫や両親は亡くなっていて、自分は彼らの行った所に行きたいのですと祖先や亡くなった主人に義理立てされる方もおられますね。主イエスを信じれば、神は愛ですから、私たちは愛のもとに導かれます、しかし信じなければ、愛もない、光もない、希望もない、平安もない暗黒の世界に行くのです。亡くなった主人の顔も見ることができない世界なのではないでしょうか。


祈り


 どうか自分の日本の家族でも、主イエスを信じていない姉たちがおりますが、主イエスを信じる事ができますように、紹介する機会がありますように。神の義の前には、平然と立てる者は誰もおりません。どうか主イエスによって、信じていない者たちが、信じる者となり神と和解する事ができますように。アーメン  

文: 森 宗孝


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