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2024年7月17日 ヨハネの福音書8章

「すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。しかしイエスは身を隠して、宮から出ていった。」(59)


 このことばは、「姦淫の現場を捕えられた女性」の物語の最後の節です。興味深いことに多くの場合、イエスの癒しや奇跡などの出来事の後には、パリサイ人、律法学者たちとの問答が始まります。実はその問答の方がその出来事の意味を伝える大事なところなのです。


 この女性に対する赦しの宣言の後にもパリサイ人との問答が始まります。それが8章の終わりまで延々と続きます。そして最後の59節で、姦淫の女性に向けて投げようとした石(罪なき者から石を投げよというイエスのことばで一度は手放して地面に置いたはずの石)、その石を再び取り直して、今度はイエスに投げつけようとしたのです。


 その理由は、イエスがユダヤ人に対して、彼らが罪の中に死んだ者であり(21)、罪の奴隷(34)であることを示したからでした。

 姦淫の女性に対しては、罪の赦しを宣言しました。なぜなら彼女は自分の罪を知っていたからです。しかしユダヤ人たちは自分の罪を知りませんでした。むしろ真実を示すイエスに逆らいました。


 ここに、私たち人間の罪深さを見ます。人に対して石を投げるばかりか、イエスに対しても石を投げるのです。しかしイエスは、その石をつまり人間の罪をその身に受けてくださったのです。それが十字架です。(この時は、まだ十字架の時は来ていなかったので回避された。(20))

 石を投げられる自分、石を投げる自分、その私の罪のためにイエスは十字架にかかり、その罪を赦し、清めてくださったのです。

 今や私たちは、イエスに石を投げるのではない、賛美を捧げる者とされたのです。ただただ十字架にかかってくださった主に感謝を捧げます。


天の父なる神さま。

 私たちは、人に石を投げ、イエスにまで石を投げるような者たちです。人を裁き、イエスをも裁くような罪人です。しかしあなたの十字架の救いによって、今や私たちは石の代わりに賛美を捧げる者とされました。この恵みを心から感謝します。

 どうか、この主の十字架をもっともっと分かることが出来ますように。私たちの心の石を砕いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                               文:関真士


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