『再びガリラヤ湖畔で』
いよいよ最後の章となりますが、ペテロが一番初めに主イエスに出会ったのも、このガリラヤ湖でした。ルカ5章では主イエスの指示通りに網をおろして、おびただしい数の魚をとれた後に、あの時、シモン・ペテロは「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い人間ですから。」と畏れを持って、平伏して主イエスに接していたペテロに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われ、全てを捨ててイエスに従ったとあります。
この21章では、復活された主イエスが再び、このガリラヤ湖で始まった弟子訓練がガリラヤで終わるのです。ペテロたちに現れて念を押すように、わたしの民、わたしの羊の面倒をこれから見るように、羊を飼いなさい、牧しなさい、人間をとる漁師になりなさいともう一度告げる場面です。
初めて会った時のペテロが平伏していたのに対して、この時、ペテロは、わざわざ上着をまとって、喜びのあまり、飛び込んで岸辺の主イエスに会いに行っています。畏れ多い神の御子としての主が、ペテロの愛する私の先生となっていた姿が目に浮かびます。 主イエスは、ご自分を否定した、このペテロに対して3度も繰り返して、わたしを愛していますか。と問いただします。余談ですが、確かに、この3回の愛と言う言葉は、ギリシャ語では異なった言葉(神への愛から兄弟愛)で書かれているのですが、自分が思うには、主イエスと弟子達はギリシャ語で話していたわけではないのではないか、当時はアラム語が日常会話だったようなので、ギリシャ語に翻訳された時に、深い意味として書かれたのではないかとも思うのです。
とにかく、わたしを愛するかという質問は、弟子を代表するペテロに向かって語られていますが、他の弟子達も十字架刑に向かうイエスを捨てたのは、同じ事ですから、弟子達全員に向かってわたしを愛するかと尋ねているのではないかと想像するのです。主が弟子達に求められているのは、これからあなたたちが、わたしの羊である民の面倒を見るのですよ、わたしがあなたたちを導いたように愛をもって導きなさい。と心をこめて諭している最後の場面です。
岸辺で主イエス自らが朝食の用意をされました。
13節「イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。」
この時に弟子達は、どのような事を思い浮かべたのでしょうか
ガリラヤ湖畔での5千人の食事の場面だったかもしれません、またはエルサレムでの最後の晩餐場面だったのでしょうか。もしくは3年半ほど一緒に旅をした時の野宿しながら主と一緒にワイワイ・ガヤガヤと皆で食事した事を思ったのでしょうか。私たちは知っています、弟子達がその後、それぞれが心に聖霊を受けて力となり、殉教死しながらも主イエスの羊である信者の面倒を見るために、主の約束を果たすために、自分の生涯をかけて生きた事、やがて私たちも主イエスとこの弟子達とも会う事になっています。
祈り
主が私たちを待っていていてくださり、食事を用意して下さる。どうか12弟子達に比べて、まだまだ信仰が弱い私たちも一緒に食事をする機会が与えられている事を思い、主イエスの戒めを守り、主イエスの羊を飼う牧者となることができますように、導いて下さい。 アーメン
文:森 宗孝
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