16章は、この手紙の終わりのことばです。パウロは、大勢の名前を挙げています。テモテやアポロ、アキラとプリスカのように他の箇所にも名前が挙げる人もいれば、「ステファナの一家」「ポルトナトとアカイコ」のように、この箇所だけの人もいます。
この人たちが、どのような人たちなのか、その素性は分かりません。しかしパウロは、実に多くの人々と関わりを持ち支えられていたのだという事が分かります。
パウロのように歴史に名前が残るような人もいれば、そうではない人も大勢います。それぞれの神さまの用い方が違うのでしょう。
無名の神さまの働き人たち。キリスト教会の歴史は、このような無名な人々によって造られ、守られてきたのです。100年後、私の名前は、ほぼ残っていないでしょう。しかし、一人ひとりの存在の確かさは、神の歴史の中に刻まれています。そして何よりも神ご自身が私たちの名前を覚えていてくださいます。
21節には「私パウロが、自分の手であいさつを記します。」(21)と記されています。実際の手紙は、パウロの弟子が口述筆記したのだと思われます。しかし最後の挨拶だけ自分の手がで書いたというのです。なんだかの事情(眼が悪かったという説もあり)、筆記することが困難だったのでしょう。
だからこそ、この最後の3節、主の再臨を待ち望むこと、主イエスの恵みと愛の挨拶は、彼の特別な思いが込められた言葉です。実際の文字は、震えるような文字だったのかもしれません。パウロの魂のことば、絶筆です。
天の父なる神さま、、
有名、無名に関わらず、それぞれが神から与えられた働きを全うすることができますように。福音宣教の働きの一端に参加できますように。
また、パウロの魂のことば、しっかりと受け止めます。なお主を待ち望み、主の恵みと愛に生きていきます。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン 文:関真士
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