『なぜ何の助けもないのか』
宗教改革の中で、苦悩を経験したマルチン・ルターは、ヨブ記を聖書の中でも最も崇高な書と評価している、これは恐らく人間の苦悩と、私たちには見えない神のDivinity(神性)の解決なき解決を理解されたのではないかと思います。それに対して、先月のデボーションで学んだエステル記に対してルターは、血生臭い報復の書として、無かった方が良い書とまで酷評している。自分としては、ヨブ記は何度も同じような話が繰り返されていて、エステル記の方が面白いと思ったのです。人はそれぞれその経験によって、違ったみことばが心に響くのですね。
さて、私たち日本人の根元には、「因果応報」という苦難を受けるのは、何らかの罪を犯したせいであるという根強い考え方があると思います。イエスの弟子たちも同様な考えを持っていた事が解ります。ヨハネ9章に生まれた時から盲目の人の癒しがありますが、2節「弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」これは日本人の因果応報の考え方と全く同じですね。そして、この因果応報に立つのがヨブの友人たちの立場だと思うのです。 あなたがこれほどの苦難に逢うのは、過去に犯した罪のためである。と思ってしまうのです。
しかし、ここでヨブの友人たちを簡単に非難することはできません。彼らは、ヨブと共に、七日七夜座って、一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みが非常に大きいのを見たからである。と2章13節にあるように、7日間も一緒にいて、祈っていた友人たちなのです。ヨブの事を心配してやってきた友人たちです。
私たちも友人の中に、大変な苦難を通された方々を知っておられると思います。愛する者を失った悲しみや、自分の身体が末期のガンにさらされてしまった方、知人の中に、マウイ島のラハイナで家が焼失して、やっとの思いでロスに移り住んだ家族がおられます。今度はロスの火事で、またもや家が焼失してしまったそうです。ヨブは一瞬のうちに十人の子供達を一挙に失い、財産の家畜も同時に失うだけでなく、自分の身体に悪性の腫物ができて、身体中が痛くてたまらなかったとあります。
なぜ神は、このような罰をもって私を打つのかわかりません。との叫びが続きます。ヨブ記6章4節「まことに、全能者の矢が私に刺さり、その毒を私の霊が飲み、神の脅威が私に対して準備されている。」神になぜですか。と問うものの答えがないのです。24節「私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどのように迷い出たのか、私に悟らせよ。」と訴え続けるヨブの姿に、大変な苦難を通っておられる方々は、確かにそうだと同感される方も多いかと思います。どんな悪い事をした罰なのか解らないと訴えているヨブを目の前に見ながら、友人たちは、その答えを、それぞれが模索するのです。
祈り
苦悩の中におられる方よ。私たちは、そのような苦しみの中においても、神がおられて見守って下さる、信じがたいことを信じることができますように、決して簡単に回答が得られて、解決の策が示されるとは限りません。解決のない解決に導かれますように、痛みが少しでも和らぎますように祈ります。アーメン
文:森 宗孝
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