2025年3月18日 ヨブ記14章
- hccnichigo
- 3月18日
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『死ぬとまた生きるのでしょうか』
ヨブの嘆きは続きますが、徐々に神の奥義に対する質問に移っていくような気がする14章です。14節「人は死ぬと、また生きるのでしょうか。私は苦役の日の限り、待ちます。私の代わりがやって来るまで。」ここでは、文脈から復活というよりも、輪廻のような生まれ代わりのような意味ではないかと推測するのですが、復活ともとれる文ですね。 そして主に向かって17節「私の背きを袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。」と願っています。しかし、4節「きよい物を汚れた物から取り出せたらよいのに。しかし、だれ一人できません。」と諦めているように見えます。
しかし、ここで、私たちは幸いにも主イエスのことを思い起こします。主イエスを信じる者は、復活してまた生きるのです。そして私たちの背きという咎がいかに緋くあっても、雪のような白さにしてくださり、罪を覆ってくださいます。そして罪にまみれた私たちの魂を、聖霊の助けによってきよい者として下さいます。ヨブの嘆きにすべて答えてくださる主イエスを私たちは、知っていることに感謝します。実に旧約聖書には、答えのない預言や、答えのない、例えば、何故いけにえをささげるのか、救い主とは何者か。 旧約聖書に答えているのが新約聖書なのです。
1節「女から生まれた人間は、その齢が短く、心乱されることで満ちています。」確かにその通り、私たちは花のように咲いてはすぐにしおれてしまう人間です。確かに心乱されることで人生は満ちています。そうして、主の日には、さばきの座に連れて行かれて、第二の死を経験することが決められています。第一の死は、自分の朽ちる身体の死ですが、第二の死は、神の裁きによる死という運命が定まっていますが、ああ、ここでもまた主イエスによって、信じる者が第二の死を経験することが無いと約束されている事を、私たちは知っていることに感謝します。
ヨブが嘆いていること、主は人の希望を絶ち滅ぼされると言うのですが、実にそれは、間違っています。主イエスは、人の希望を滅ぼしに来られたのではありませんでした、むしろ新しい命を与え、霊的に生まれ変わって、永遠の希望をお与えになるために、この世に人の子として来られました。ヨブは子供も、財産も失い、さらに自分の健康も失った激痛の中で、希望は絶たれたと思いましたが、主イエスによって、さらなる希望が与えられることになったことに感謝します。
この世には、想像を絶する患難があります。終わりの世には、世界全体の人たちが経験するのも、このような大患難でありますが、主イエスは、もう一度再臨されて、私たちの身体まで、復活されて、永遠の命を与えてくださることを教えて下さいました。ヨブも、私たちと同様に復活の身体を与えられて、新たな希望の中で喜びを分かちあう者となることに感謝いたします。
祈り
祈りは聞かれています、ヨブの願いは主イエス・キリストによって聞き取られたことを私たちは、学び、理解していますことに感謝致します。アーメン
文:森 宗孝
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