2025年3月21日 ヨブ記17章
- hccnichigo
- 3月21日
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友人から見放され、家族もいなくなった今、ヨブには神にしか頼る者がいなくなりました。この全き見捨ての中で、ヨブは憐れみの神に出会います。「私の霊が乱れ、私の日は尽き、私には墓があるだけです。実に、嘲ける者たちが私とともにいます。私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごします。どうか、私を保証してくれる人をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる人がいるでしょうか。」(1-3節)。
ヨブは、天にあり、人を創造し、裁く神に慣れ親しんでいましたが、今、神の別の側面、愛と憐れみの神を見いだそうとしています。イエス様は、マタイによる福音書6:32~33で、「あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、それに加えて与えられます。」といって、人を生かす神を語られました。
でも、ヨブは相変わらず友人たちを許せません。自分を批判する友人たちが勝利を得ることがないように、「あなたはあの者たちの心を賢明さから引き離されました。ですから、あなたが彼らを高くあげられることはありません。」と神に祈ります(4節)。
ヨブは嘲られ、顔に唾され、人は自分の惨めな姿を見て驚くかも知れないと思いながらも、彼は自分の正しさを主張し続けます。
「分け前を得るために友の告げ口をする者。その子らの目は衰え果てる。神は私を人々の笑いものとされ、私は顔に唾される者となった。私の目は苦悶でかすみ、私のからだはどこも影のようだ。心の直ぐな人はこのことに驚き恐れ、潔白な人は神を敬わない者に向かって憤る。正しい人は自分の道を保ち、手のきよい人はつよさを増し加える。だが、あなたがたはみな帰って来るがよい。私はあなたがたの中に知恵のある者を一人も見出さないだろう。」(5-10節)。
このヨブの心の強さは信仰から来るのでしょうか。彼はこのような絶望に追い込まれても、神は見ているはずだ、誰か理解してくれる人はいるはずだと思い続けます。このつたない希望が信仰なのでしょうか?イエス様は絶望の中で神を求め続けられました。
「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。(へブル人への手紙5:7)。
ヨブは信仰の大いなる決心を述べましたが。しかし、その反動でまた落ち込んでしまいます。自分はもはや暗黒の陰府の他に行くべき家はなく、ちりの中に伏すべき存在であることを知って、再び絶望の闇の中に落ち込んでしまいます。わたしの日は過ぎ去り、私の企て、私の心の願いも砕かれた。
「夜は昼に変わり、闇のあるところに光が近づく」と人は言う。しかし私が、よみを自分の住まいとして望み、闇に自分の寝床を広げ、その穴にむかって「あなたはわたしの父」と言い、うじ虫に向かって「あなたは私の母、私の姉妹」と宣言するなら、いったい、どこに私の望みがあるのか。だれが私の望みを目にするのか。それらがよみの戸口にくだったとしても、私たちがともに、ちりの上に降りたとしても。(11-16節)
主の祈り:落胆しても、苦悶の中でかすかな希望を見出すヨブを学びました。私たちが苦悶の中にある時に、ヨブにならって同じような経験ができるのでしょうか? 聖霊様、助けてください。あなたの助けを求めて止みません。今日の御言葉を感謝します。アーメン
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