2025年3月25日 ヨブ記21章
- hccnichigo
- 3月25日
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『空しい慰め』
ヨブの友人ツォフォルへの答えが21章ですが、ツォフォルは自分の中の怒りを抑えきれずに、間接的にヨブを批判したのです。嘆きの中にいる友人が、求めているのは、神学的な患難の理由などではなくて一緒に泣いてくれる、痛みをわかってくれる相手が必要なのではないでしょうか。男の性格として、例えば、妻が仕事場でいじめにあった話を詳しく聞くと、寄り添うよりも、その解決案を探してしまうのです。ヨブの友人たちも、彼を慰める為に集まって何とか力になりたいと思っていたわけですが、ヨブの話の中から、患難が起きる理由探し、神学的な理由をもって現状を分析してしまう、男の性格が表れてしまっているのです。それに対してヨブが1節「私の言い分をよく聞いてくれ。それを、あなたがたから私への慰めにしてくれ。」と友人たちを突っぱねるような答えから始まります。
ヨブの逆境は、自分の唯一の頼りとする神が、自分の人生から見えなくなってしまったことにあります。今まで主が共におられることを実感していたのに、今は見えないのです。そのような経験は、おうおうにして、私たちのクリスチャン生活の中でも同じ思いを持つことがなかったでしょうか。光がみえなくなったので、そこに疑いが頭をもちあげてくるのです。クリスチャンだけではありません、この世の富を頼る資産家が、株の暴落ですべてを無くしてしまった、その時ほどみじめな思いをすることはありません。唯一の土台であった神の存在が、消えてしまった訳ではありませんが、見えなくなってしまったのです。
ヨブの三人の友人たちは、神は聖なるお方であるから、正義には幸福を、不義には不幸をもって報いるお方なので、今の患難はヨブが咎を犯した結果であり、ヨブがもとの幸福な状態に戻るためには、神の前に謝罪することであると主張しているのです。しかし、ヨブとの論議が重なるたびに、今までは面と向かって、ヨブが罪人であると言わなかった知人たちは、熱があがってきてしまいます。しかし、この論議の中で、特に前の19章で、ヨブは苦しみのために、神の奥義を垣間見たのではないかと思うのです。特に19章25節「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。」と主イエスとあたかも出会ったようなコメントがあるのです。それでも安心しきったというわけではありません。ヨブは身体の苦しみのあまりに、友人達の思いやりのない言葉に反発をするのです。これは私たちの信仰による苦しみの旅を表しているのではないでしょうか。行き場のない怒りが友人に向かって34節「それなのに、どうしてあなたがたは空しいことばで私を慰めようとするのか。あなたがたの応答は、不信実以外の何でもない。」ヨブの怒りは頂点に達してきます。
私たちは、自分達が信じる主イエスの姿が見えなくなってしまう時にこそ、自分の信仰が試されている時でもあるのではないでしょうか。そして、自分の患難、自分の痛さ、苦痛にだけ目を留めているうちには、なんの解決も、答えも出すことはできませんが、主の目で自分を見ることができた時に、主と自分が重なり合って、主の力が与えられて、求めていた答えが見えてくるようになるのかもしれません。
祈り
自分の痛みのせいで、慰めにきてくれた友人の気持ちを理解することもできなくなってしまうこともあるでしょう。しかし、主イエスの目で自分を見つめ、友人たちを見ることができますように、痛みを和らげて、聖霊によっての導きを叶えてくださいますように。アーメン
文: 森 宗孝
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