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2025年3月5日 ヨブ記1章

  • hccnichigo
  • 3月5日
  • 読了時間: 3分

 ヨブ記のテーマは「神議論」と呼ばれます。神議論とは、「なぜ全能であり、愛であり、義である神が造ったこの世に悪が存在するのかを問う議論」です。

 人生は不条理で満ちています。答えのない出来事で一杯です。そこで私たちは神を信じるからこそ、なぜ神がいるなら、と問うのです。


 ヨブは「この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。」(1)という人物でした。子供たちにも恵まれ、財産も豊かで、申し分のない幸せな日々を送っていました。ところが突然ヨブを苦難が襲います。一瞬ですべてを失ったのです。

 ここから長い章に亘ってヨブと友人たちとのやり取りが始まり、そして最後に神ご自身がヨブに現れます。

 彼らの思考の大前提は、神は正しい人に災いをくだすはずはない。だからヨブが苦難にあっているのは、何か隠れた罪があるに違いないということです。

 友人たちはヨブに対して、何か罪があるだろう、罪を認めよと迫ります。しかしヨブはどう考えても罪が思い当たらない、いっそむしろ罪があると分かった方が納得できるのです。しかしヨブは思い当たる罪がない、にもかかわらず神から災難を受けている、ということは「神の方が間違っている」という考えに至っていくのです。

 これから続くヨブと友人の長いやり取りは、この事を理解しておくと分かりやすくなります。

 

 しかし、まず1章においてはヨブの信仰は揺るぎません。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(21)と告白します。

 苦難の中でヨブは、それでも神への信頼を失いません。それは、「主よ、なぜですか?」と問うことなく、ただ主の絶対的な主権を認めているからです。


 しかしこの後、3人の友人たちは、神の正しさを神のために弁明しはじめるのです。しかし人間が、神の正しさを証明することには限界があるのです。ですから後にこの3人の友人は「わたしについて確かなことを語らなかった。」(42:7)と言われてしまうのです。またヨブは、「自分を義とするために、わたしを不義に定めるのか。」(40:8)と言われてしまうのです。

 

 ヨブ記は、なぜ苦難が起こるのか? という問いかけに答えません。神議論には答えはないのです。しかし実に多くの人が、苦難のただ中にあってこのヨブ記に慰めと希望を見出すのです。それはなぜか? なぜヨブ記が希望の書となり得るのか? そのことを考えながら、ヨブ記の世界に飛び込んでいきましょう。



天の父なる神さま

 このヨブ記を通して、私たちが、もっとあなたのことを知ることができますように。そして自分を知ることができますように。御言葉の深みへと私たちを導き入れてください。アーメン

  文:関真士

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