2025年4月2日 ヨブ記29章
- hccnichigo
- 4 日前
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「私は義をまとい、義は私をおおった。私は公正さは上着であり、かぶり物であった。」(14)
23章から31章にわたって延々とヨブの言い分が続きます。その言い分の要点は、「私は義人である」ということです。その義(正しさ)の根拠として、29章では、「それは、私が叫び求める苦しむ人を、身寄りのないみなしごを助け出したからだ。」(12)と述べています。さらに「私は目の見えない人の目となり、足の萎えた人の足となった。」(15)など、自分がいかに苦しんでいる者を助けたかを述べています。
聖書、特に律法における義の内容として、貧しい者、病んでいる者、困窮している者を助けるということが含まれます。まさに隣人を愛することが正しいことなのです。
しかし例えばイエスの時代においては、ルカ10章に記されている「良いサマリヤ人」のたとえは、ユダヤ人がサマリヤ人を差別しているという背景があります。
律法学者はイエスに対し、律法で大切なのは神を愛することと隣人を愛することだと答えました。しかし、実際にはユダヤ人はサマリヤ人を差別しているのです。隣人として愛していないのですから矛盾しています。
しかし、ユダヤ人にとって、サマリヤ人は隣人ではないとみなされていたのです。だから愛する必要はないのです。その欺瞞を自覚させるために、イエスはこのたとえ話を語りました。
それにしてもとんでもない理屈です。しかし歴史の中で、一部のキリスト教会は黒人差別を肯定するために、あるいは植民地政策、侵略を肯定するために、黒人も現地人も、彼らは神のかたちに造られた人間ではないという理屈から、彼らを隣人愛の対象から除外したのです。
しかしイエスがされたように、私たちの隣人に例外はありません。私たちに関わり、出会う人はみんな隣人です。自分を愛するように愛するべき対象なのです。例外はありません。
ここでヨブ記に帰ると、結局ヨブは、確かに正しいことを述べているのですが、その義を自分の義としてしまい(自己義認)、結果として正しい者を裁く神の方が間違っているとまで考えてしまうのです。
神の義を自分の義にすり替えてしまう時に、私たちは道を誤ってしまいます。
天の父なる神さま
何が本当に正しいことなのか見分ける力を与えてください。そしてその本当に正しさに生きることができますように、どうか聖霊の力を与えてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:関真士
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